小池百合子に文句を言う希望の党メンバーはろくなもんじゃない

希望の党が選挙で負けたことで小池に文句を言うメンバー達がいる。

しかし、そういうものだろうか?

たとえば、リーダーがメンバーの反対を押し切ってある決定をしてそれが失敗した場合、リーダーは責任を問われるだろう。

しかし、小池の決定に事前に反対はなかったと思う。

小池が党を作ると言って、自らの意志で集まった者たちだ。

彼らはサラリーマンではなく、1回1回の選挙で当落が問われる国会議員だ。

リーダーに雇ってもらっているのではなく、自分で当選をかち取らなくてはいけない立場のはずだ。

しかも誰に押し付けられたのでもなく、自らの意志で、小池がいいと集まったメンバーのはずだ。

しかもその間、小池の発言のここがいけないとか反対が出たわけではなかった。

単に選挙結果が悪かっただけで小池を責めるが、その前に自分の信念で、こういう活動をしていくと選挙民にアピールしてきたのだ。

その時に、小池の作った党が良い党だと有権者に訴えてきたのではなかったのか?

んで、落選したら自分が支持してきた党とか党首とかが悪いというのなら、選挙中に有権者に訴えてきたのは何だったのか?

選挙に勝つための便宜で、心にもないことを有権者に訴えてきたのか?


希望の党の所属メンバーで小池に文句を言う者は自己責任で行動するというまともな大人ではない。

もともと民進党には、選挙互助会的な発想で、これまでもあっちに行ったりこっちに行ったりする、橋下徹が言うようなチョロネズミみたいなのが多すぎる。

政治家にも生活があるなんていう甘えを言う奴は最初から国会議員なんかならなければよい。

一人で有権者にアピールして無所属でも勝つ、ぐらいの力がなければ地方議員でもやってればいい。

それもできないならサラリーマンをやればいいし、それもできなければ、今は有効求人倍率がどこも1を超えているのだからバイトして生活すればいい。

自らの信念に基づき行動できなくて、リーダーについて行って、結果が出なければ文句を言うような奴は国民の代表にふさわしくない。

小林節が政党立ち上げ

小林節は去年2015年には集団的自衛権容認は違憲という主張を積極的に展開していたが2013年には集団的自衛権は容認されるべきという論調だった。そこのところの変節を誰もあまり突っ込んでいないように思う。

 

かつて民主党の岡田代表も、集団的自衛権を容認する余地ありというニュアンスのことを言っていたのに安倍政権集団的自衛権一部容認には反対しているのはつじつまが合わないと突っ込まれた。同じような問題だと思う。詳細は以下の通りだが岡田は声を大きく張り上げて強弁するしその過程で微妙に論点を替えたりするので誰もあえて面と向って突っ込み続けることはしないのだが、しかし政治家はとことん突っ込まれない代わりに支持や信用を失っていく。

 民主党の岡田代表。今は民進党という名になったが。集団的自衛権について、民主党幹事長時代の岡田は、03年5月3日付読売新聞に載った座談会で、「日本を防衛するために活動している米軍が攻撃された場合、日本に対する行為と見なし、日本が反撃する余地を残すのは十分合理性がある」と指摘した。そして、「今の憲法は、すべての集団的自衛権の行使を認めていないとは言い切っておらず、集団的自衛権の中身を具体的に考えることで十分整合性を持って説明できる」と述べていた。このことについて自民党佐藤正久参院議員が安保法案の審議中だった2015年9月14日の参院特別委で取り上げた。曰く、岡田は集団的自衛権は必要ないと断言しているが、かつては行使を容認しているではないかと。さらに岡田以外の民主党幹部も行使容認の発言をしているとも。民主党からはこの指摘に反発の声が上がった。
   岡田は、読売新聞の座談会発言については、17日のブログで真意を説明。
  座談会では、佐藤氏が取り上げた発言に続いて、「ただ、日本を守るため公海上に展開している米軍艦艇が攻撃された場合という限られたケースなので、むしろ個別的自衛権の範囲を拡張したと考えた方がいい。集団的自衛権という言葉を使わない方がいい」と述べている。岡田氏は、そのことを指摘して、「発言の一部を切り取った捏造」だと佐藤を批判した。

 15年9月27日放送のNHK日曜討論」で、櫻井よしこは「岡田さんがね、かつては『集団的自衛権は必要です』と民主党政権のときの外務大臣として言った」と述べた。これを受けて、民主党は翌9月28日、ホームページ上で櫻井よしこ氏の発言に抗議する声明を出した。岡田は、外務大臣として「集団的自衛権は必要」と言ったことはないと全面否定。また、櫻井氏が番組で「民主党共産党と組む」と選挙協力のことに触れた発言について、岡田は会見などで否定的な考えを示していると反論した。櫻井に発言の根拠を示すよう求めるとともに、発言内容は事実無根だとして撤回・訂正して岡田代表や民主党に謝罪すべきだとした質問状を近藤洋介役員室長名で送ったことを明らかにした。30日までに書面での回答を求めた。
 それに対し櫻井は30日、回答文を同党に送った。櫻井は同番組で「岡田克也代表が外相時に集団的自衛権は必要と述べていた」と発言したことは「民主党が野党時代の幹事長として」だったと訂正。その上で、岡田が6月の党首討論で「集団的自衛権の行使は要らない」と主張したことを「180度の転換」と強調。
 民主党は、櫻井が番組で「民主党共産党と組む」と発言したことにも「連立を組むことが決まっているかのような誤解」を与えたと抗議していた。これに対し櫻井は該当部分のやり取りを紹介し「(両党が)選挙協力したときに何が起き得るかに言及し、協力関係を批判した」「誤解を与えているのは民主党」と反論した。
 櫻井の回答を受けた民主党は30日「全く同意できない」として再質問状を送付。岡田は幹事長時代も含め「『集団的自衛権は必要』とは一言も述べていない」などと反論。2日までに番組での発言を撤回し、岡田と民主党に謝罪するよう求めた。それに対して櫻井は10月2日、「新たに加えられた質問も含めて、先日の私の回答文で説明が尽くされています。したがって、再度の回答は不必要だと考えます。」との文書を送付。

 

語り継がれる「物語」と小説家の「物語」

語り継がれる「物語」と小説家の「物語」 - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

村上さん、こんにちは! 一度だけにしようと思っていたのですが、やっぱり気になるのでもう一つだけ質問させてください。
小説家が、個人として作る小説としての「物語」と、神話や民話、伝説などのように人々によって長い年月語り継がれ(ときに変化し)てきた「物語」には、どのような重要な違いがあると考えますか? 
また、本来なら後者の「物語」にしか持ちえない性質を、ご自身の小説にとりいれようとすることは、村上さんにとって大切なことですか? 
『雑文集』の「小説を書くということ」の章がとても好きなのですが、このふたつの種類の「物語」の違いについて村上さんはどう考えていらっしゃるのか気になっていました。

P.S.
質問とは関係のないことですが、無事にニューヨークにつきました。相変わらずドーナツを食べています。しあわせです。今日の村上さんにもドーナツひとつぶんのしあわせがありますように。
(ちひろ、女性、24歳、学生)

エリア・カザンに「ブルックリン横丁(A Tree Grows in Brooklyn)」という古い映画があります。主人公の12歳くらいの女の子が、学校の先生に物語について教わるところがあります。先生は彼女に言います。「真実を伝えるために必要な嘘があります。それは嘘ではなく、物語と呼ばれます」。細かい台詞は忘れたけど、たしかそんなだったと思います。その女の子はそれを聞いて「私は作家になろう」と決心します。僕がとても好きなシーンです。

古代においては、神話的物語は生活に密着したアクチュアルなものとしてありました。人々の上部意識と下部意識は当時、まだはっきりと分別されてはいませんでした。しかし現代ではそれはおおむね「神話性」と「物語性」という二つのかたちに分割されてしまっています。でも我々はまだ、努力すれば地下に降りていって、「神話性」と「物語性」がひとつに溶け合っている世界に足を踏み入れることができます。そしてその世界の有り様を小説というかたちに転換していくことができます。小説家といわれる人はそのようにして「真実を伝えるために必要な嘘」をリアルに立ち上げていくことができるのです。

 

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西洋において小説は宗教が力がなくなった近代のはじめに成立した。宗教性の薄い日本にはそれよりはるか昔から小説がある。

ひょんなことからメジャー・デビュー! - 村上さんのところ

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僕はロックバンドをやっておりまして、ひょんなことから歌うのが好きで、ひょんなことから夢を見続けていて、ひょんなことから今年メジャー・デビューすることになりました(こんな年齢なのにです)。今はそれにむけての曲作りの日々です。もちろんさらさら従う気なんてないのですが、大好きな村上春樹さんだからお尋ねしたいのです。こんな時代に、こんな僕に、何を歌って欲しいですか? 
(海へと還る、男性、37歳、ミュージシャン)

メジャー・デビューするんだ。すごいですね。がんばってください。

何を歌ってほしいか? とくに歌ってほしいものはありません。僕は思うんだけど、何を歌うかじゃなくて、あなたが歌うものが結果的に何を掘り起こしていくか、それが大事なんです。その掘り起こされたものを人々が目にして、「ああ、こんなものがちゃんとあったんだ、知らなかったな。気がつかなかったな」と感心したり感動したりします。小説にしても、歌にしても、そういうものです。何を掘り起こすかは自分で見届けてください。うまくいくといいですね。

村上春樹

 

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これは要するにイノベーションのことを言っている。

原発NO!に疑問を持っています - 村上さんのところ

原発NO!に疑問を持っています - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

 

早速ですが、村上さんは海外でのスピーチで原発反対を訴え、メディアもそれを伝えていました。ただ私自身は原発についてどう自分の中で消化してよいか未だにわかりません。親友を亡くしたり自分自身もけがをしたり他人にさせたりした車社会のほうが、身に迫る危険性でいえばよっぽどあります。(年間コンスタントに事故で5000人近くが亡くなっているわけですし)。文明と書かれたおもちゃ箱の様な物の中から、一つ原発を取り出して「これはNO!」と声高に叫ぶことが果たしてどこまでフェアなのかがよくわからないのです。もちろん原発なんてない方がいいとは思うのですが、世界を見渡せば増える傾向にしかないですし。原発反対=正義のような図式も違うと思うし……。

この先スーパーエネルギーが発見されて、原発よりも超効率がいいけど超危険、なんてエネルギーが出たら、それは止めてせめて原発にしようよなんて議論になりそうな、相対的な問題にしかどうしても思えないのですがどうでしょうか……。
アジアンタム、男性、38歳、鍼灸師

たしかに年間の交通事故死が約5000人というのは問題ですよね。それについてはなんとか方策を講じなくてはと、もちろん僕も思います(最近は年々減少しているようですが)。しかし福島の原発(核発電所)の事故によって、故郷の地を立ち退かなくてはならなかった人々の数はおおよそ15万人です。桁が違います。それだけの数の人々が住んでいた土地から強制退去させられ、見知らぬ地に身を寄せて暮らしています。家族がばらばらになってしまったケースも数多くあります。その心労によって命を落とされている方もたくさんおられます。自死されたかたも多数に及んでいます。その人々の故郷はいつ戻れるかもわからない土地として、打ち捨てられています。

もしあなたのご家族が突然の政府の通達で「明日から家を捨ててよそに移ってください」と言われたらどうしますか? そのことを少し考えてみてください。原発(核発電所)を認めるか認めないかというのは、国家の基幹と人間性の尊厳に関わる包括的な問題なのです。基本的に単発性の交通事故とは少し話が違います。そして福島の悲劇は、核発の再稼働を止めなければ、またどこかで起こりかねない構造的な状況なのです。

効率っていったい何でしょう? 15万の人々の人生を踏みつけ、ないがしろにするような効率に、どのような意味があるのでしょうか? それを「相対的な問題」として切り捨ててしまえるものでしょうか? というのが僕の意見です。

それからちなみに、「年間の交通事故死者5000人に比べれば、福島の事故なんてたいしたことないじゃないか」というのは政府や電力会社の息のかかった「御用学者」あるいは「御用文化人」の愛用する常套句です。比べるべきではないものを比べる数字のトリックであり、論理のすり替えです。僕は何度もそれを耳にしてきましたが、耳にするたびにいささか心がさびしくなります。

 

 

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(僕の意見) 僕はこのサイトの村上春樹の意見の多くに共感するし、意見に賛成できなくても少なくとも「ああこういう考え方があるな」と実感したり、それができなくても許容できるものばかりだけど、これだけは強い違和感を持つ。なんか言わされてる感がある。もしそうでないとしたら村上春樹はここで思考停止をしている。そういう感じがどうしても拭えない。

 

 

“「年間の交通事故死者5000人に比べれば、福島の事故なんてたいしたことないじゃないか」というのは政府や電力会社の息のかかった「御用学者」あるいは「御用文化人」の愛用する常套句です。比べるべきではないものを比べる数字のトリックであり、論理のすり替えです。”

ーーー村上はこう言うけど、僕は御用学者でも文化人でもないけど、このような考え方を持つので、こういう考え方を持つ人は御用なんとかだという決め付けには反発を覚える。
 それに「比べるべきでないものを比べる数字のトリックであり、論理のすり替え」と言ってるけど、なぜ比べるべきものではないのか?なぜ論理のすり替えなのか?それについて村上は何の説明もしていない。被害にあった人数を比べているのだ。単位は合ってる。別に人間1人としょうゆ1本を比べてるわけではない。それに村上自身が「たしかに年間の交通事故死が約5000人というのは問題ですよね。・・・しかし福島の原発(核発電所)の事故によって、故郷の地を立ち退かなくてはならなかった人々の数はおおよそ15万人です。桁が違います。」ってちゃんと比べてるではないか。しかも、「事故で死んだ人」1人と「移住をよぎなくされた人」1人を単純比較していいのか?って逆に言いたくなる。もし比べるんなら、死亡者と死亡者を比べなくてはならないはずだ。福島原発での死者は、いくらなんでも5000人にはならないはずだ。「比べるべきではないものを比べる数字のトリック」「論理のすり替え」を行なってるのはどちらか?

 

 

“もしあなたのご家族が突然の政府の通達で「明日から家を捨ててよそに移ってください」と言われたらどうしますか? そのことを少し考えてみてください。原発(核発電所)を認めるか認めないかというのは、国家の基幹と人間性の尊厳に関わる包括的な問題なのです。”

・・・と村上は言う。もしこういう問題なんだとしたら、人の住まない場所、過疎地などに作るのだったら問題なしということにもなる。日本にそのような場所を捜すことは不可能ではないだろう。たとえば関西空港を海に埋立地を作ってその上に立てたように、原発用の島を作ってそこで原発をすることなら良いのか悪いのか?もし村上の言うように、政府から移住するように言われるのが反対の理由だとしたら、そのような場所を確保できればそれでOKということなのか?そしてもしそういう理由で反対するなら、村上はダム建設にも反対なのか?それによって自分の生まれ故郷の村が水没したというところも全国ではたくさんある。成田空港で故郷を追われた人もある。村上はそういうのにも反対なのか?村上の場合はよく知らないが、一般にサヨクの人たちは、(成田空港の場合は昔、三里塚闘争があったが)、あんまりダム建設に一般的に反対しているイメージはない。だから故郷の移住を強制されることを原発反対の理由に掲げるのは、原発反対の理由づけとして無理やり理由を捜して言ってるような印象を拭えない。村上は海外によく行くと思うが、成田空港で強制的に移住させられた人たちに抗議して乗らないという話もきかないし。

 


“基本的に単発性の交通事故とは少し話が違います。そして福島の悲劇は、核発の再稼働を止めなければ、またどこかで起こりかねない構造的な状況なのです。”

・・・これもよく分らない言い分だ。年間コンスタントに数千人が死ぬと決まってる交通事故が、本当に単発的と言えるのかどうか。今年も数千人が死ぬのだ。来年も死ぬ。そう決まってる。「いや、みんな交通マナーを気をつければ来年は0人かも知れない」なんて言えるわけがない問題なのだ。必ず数千人死ぬと決まってるのだ。福島原発では事故発生から今まで、そしてこれから何十年を合計したって、決して数千人なんて規模にはならない。これも、原発っていうビジュアル的、イメージ的に不気味で巨大なものは怖いけど、交通事故は小さい車が人にドンって当るというビジュアルが相対的にあんまり怖くないっていう話だけだ。車の事故のほうが原発よりもはるかに人を多く殺すのだ。

 そして、もし人を死の危険にさらすものが人間の尊厳を脅かすものだとしたら、質問者が的確に指摘しているように、
 “文明と書かれたおもちゃ箱の様な物の中から、一つ原発を取り出して「これはNO!」と声高に叫ぶことが果たしてどこまでフェアなのか”ということになる。
 村上がここで示した発想は、サヨク一般によくあるように、アンチ文明的な発想だ。飛行機だって死の危険がある。「星の王子様」を書いたサン・テグジュペリはそういう死と隣り合わせの世界を選んで生きた人だった。村上の好きなヘミングウェイも戦場に飛び込んだ人だった。飛行機だって危ないし、船だって太平洋の真ん中で沈んだらほとんど助からないだろう。自動車だって、年間数千人殺すのだ。
 こういう、文明の新しいものに対する警戒心というのは常に働く。世界にさきがけて日本で初めて先物相場が江戸時代にできた時も、時の幕府は「これはバクチだ」と言って禁じたという。たしかに相場で破産して自ら命を絶つ人もいる。今だっている。だから先物とかいろんな相場はバクチとして、悪として、禁止するとしたら、今のような資本主義の発展はありえなかった。それをすべて禁じてしまうのは、アンチ文明的な発想で、村上にもそれがある。
 村上はまだ一介の小説家にすぎないから、これでも構わないと思う。このぐらいでなければ良い小説は書けないのかもしれない。こういう老荘思想っぽいアンチ文明主義も、充分正当化される。そしてもちろん言論の自由、良心の自由があるから、このような言説ももちろんOKなのだ。
 しかしこういう意見が政治的に表明されれば、それは文明にストップをかけかねない発想として警戒しなければいけない。村上はもちろん何を言ってもいいのだ。政治からストップをかけられたとしても言論人は言いたいことを言うべきなのだ。村上は去年だったか、短編小説の中で北海道のクソ田舎の地名を出して「この町はクソみたいなところだ」だったかな、正確は表現は覚えてないが、そう書いて、その地方自治体のクソ議員たちに抗議されてその表現を取り下げて変えてしまった。言論をする人は、そういうことをすべきではなかったと思う。村上春樹は、政治的圧力なんかに屈せず、どんどん物を言うべきなのだ。
 しかしその上で、ここで示された村上の発言は、村上には珍しく、それこそサヨク政治思想の御用文化人を思わせるような皮相さを感じて僕は残念だ。もし原発反対を言うにしても、こんな朝日新聞の古新聞の社説にもありそうな下らないものではなく、「なるほどなあ」って思わせる意見が聞きたかった。僕は村上春樹のファンだ。村上の言うことにはかなりの嗅覚を持っていると自負している。村上の言うことには常に、心の奥底に触れる説得力がある。この文章に関しては、珍しくそういうものを感じないのだ。

 

日本と韓国を遠ざけるメディア - 村上さんのところ

日本と韓国を遠ざけるメディア - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

村上さんお願いします、意見を頂きたいです。
私と、私の父は日本生まれ日本育ちの日本人ですが、韓国の血が流れている在日韓国人です。私はただそれだけの理由で、韓国が好きです。無論、日本も大好きです。
こういう家柄もあり、韓国に何度か行ったことがありますが、出会った韓国人はみんな、私たち日本人のことを暖かく迎えてくれて、日本が大好きだと言ってくれました。

しかし、ネット上では、猛烈な嫌韓思想の方々の意見を目にすることが頻繁にあります。
その度に私は、日本のメディアを恨みます。
なぜなら、日本のメディアのせいで、多くの日本人が、「韓国人は日本が大嫌い」だと勘違いしているからです。日本のことが嫌いな韓国人も少しはいると思いますが、日本のメディアはその部分しか伝えないのです。
もしかすると韓国のメディアも同じことをしているのかもしれません。
私はこの現状に納得がいきません。もっとお互いを好きになっていいと思うのです。

この日本と韓国の関係はどうすれば改善できると思いますか。
(もし村上さんが嫌韓思想だったなら、申し訳ありません。)
(ただの日本人、男性、20歳、大学生)

僕もメディアがことさらそういう面を取り上げて報道しているという感触を持っています。メディアというのはどうしても目立つこと、事件性のあることをニュースとして取り上げますし、それはまあある程度仕方ないこととは思うのですが、でも事実の歪んだ一面だけが強調される傾向は良くないですよね。健全なことではない。緊張がことさら強調され、まっとうな妥協を恥とするような機運がつくられていくのを目にするのは、心痛むことです。

僕は世界を旅行して、隣同士の国でものすごく仲が悪いという例をいくつも目にしてきましたが、(いろいろと事情はあるにせよ)そういう間柄は本当に不幸だと思います。もっとお互いをよく知り合い、仲良くなりたいものです。そういう意味で、僕の小説が韓国で多くの人に読まれているというのは、僕にとってはとても嬉しいことです。歴史認識みたいなことに関して言えば、僕にも僕なりの意見がありますが、ここでそういうことを述べると、話がいささかややこしくなるので、とりあえずパスします。

村上春樹

 

(以下は僕の意見) 

現在日本と韓国の関係は良くない。首脳会談も開かれていない。

しかしそれはメディアのせいではないと思う。メディアは状況を反映しているエージェントであり、プリンシパルは別にいると思う。つまり従軍慰安婦問題とか竹島問題は、じゃあメディアが良好な関係を築けば解決するか?答えはNOだ。

この質問者にはおそらく他意はないのだろう。しかしうがった見方をすれば、日本の対韓ガードを緩くさせるための策略とすら思える。つまり河野談話みたいなものを引き出すための。

河野談話とは何だったのか?まず日本政府が、戦時中に従軍慰安婦を国が主導して強制連行をするという事例を捜したが、見つからなかった。しかし韓国側には元従軍慰安婦と名のるおばあちゃんが何人かいて、日本政府はその、韓国政府に選ばれたおばあちゃんの証言を聞いた。その証言が本当なのか嘘なのかを保証するものは何もない。ただ証言があるだけ

けっきょく河野官房長官時代の日本は、強制連行の記録もなく、あるのは真否のわからないおばあちゃんの証言だけという状態の中で、でも韓国と仲直りできるなら、ということで、強制連行があったと受け取れる「河野談話」を出した。韓国政府からも水面下で、従軍慰安婦の強制連行を認める文言がなければ困る、でもそういう文言を入れてくれたら韓国政府は今後この問題を二度と問題にしない、と水面下で言ってきた。それでは、ということでgood gestureとして、それを言った。

その結果がどうなったかといえば、韓国はそれにつけ上がったのだ。問題にしないどころか、日本政府ついに認めたと言って、20年たった今も、従軍慰安婦の像を世界じゅうに立てて、日本を貶めることに夢中である。先日は中国に安重根というテロリストの記念館も建てた。

韓国には、確かに日本を貶めよう、譲歩すればそれにつけ上がり、日本からむしり取れるものがあれば貪欲に奪おう、という意志が確かに存在する。それはメディアが主導しているのではなく、彼らの国の政府が主導しているのだ。それを選んだのは民主主義的手続きに則り韓国国民が選んだのだ。

僕は個人個人で、日本が好きな韓国人はたくさんいると思う。在日コリアンの中にも、やしきたかじんのように、率先して韓国を非難し日本の味方につく人も少なからず存在する。しかし韓国人がいくら日本人が好きだと強調しても、韓国には日本が好きだと言えないような雰囲気が確かに存在する。親日派と言えば韓国では売国奴を意味し、政治家が親日発言をすれば政治生命が奪われかねない。

だから、メディアが日韓両国を遠ざけるという言い方は狭いものの見方だと思う。たしかに度を過ぎた敵視の論調はある。日本にも韓国にも両方ある。決して日本にだけあるのではない。韓国は、スポーツの会場で「独島は韓国の領土」とか「歴史を直視しない日本に未来はない」とか「東日本大震災をお祝いします」なんていう垂れ幕を立てる国なのだ。

僕は、韓国にも、日本とは関係なく営まれる人の暮らしがあるんだと思う。それを否定するつもりはないが、同時に、強烈な反日感情があるのだ。人前で日本が好きだなんておおっぴらに言えない雰囲気のある国なのだ。強制連行20万人とか、ありえない嘘がまかり通って、それをもとに日本を非難し憎む国なのだ。

僕は、日本と韓国が仲良くなれるのなら、なるのがいいと思う。最終ゴールは友好であると思う。しかし、こちらがやわらかく譲歩した結果が河野談話だったのだ。言うべきこと、真実は、妥協なく主張しなければならない。もし彼らとの友情が存在するのなら、その真実の上にしかありえない。もし真実を遠慮なく主張してけんかになるのだったら、そのけんかの向こうにしか友好はありえない。言いたいことを言わず、嘘をベースに関係を築こうとしたのが、河野談話だった。そのようなやり方が成功することはないことを、我々は20年かけて学んだのだ。

私のところにも物語がやってきた

私のところにも物語がやってきた - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

 

前の方へのお返事で、物語は向こうからやってくる、とおっしゃっていましたね。
私のところにもやってきたんです。
でも、私はごく平凡な人間で、文才も画才も他の芸術的才能もありません。
そのときはびっくりしながらなんとか文章としてまとめたけれど、物語の方がその後も増大したので、結局完全な形にはできていません。

物語を文章にしていたときは、とても楽しくて初めて現実との一体感みたいなものを感じました。
でも、文章を書く苦しみや身体的な激しい消耗や創作の恐怖を思うと、大げさなようだけれど身がすくんでしまい、再び取り掛かることができないでいます。

私はそういうものが自分の中にあるときやってきたことも、荷が勝っていてそれと向き合えないことも、もちろん一度は書き上げた物語のことも、誰にも話せずにいます。
ほったらかしにしているのに物語はまだ私から消えないで、そんなものを抱えたままにしていることで、私は現実との乖離感にときどき頭がおかしくなったのではないかと感じます。
村上さん、私はどうしたら良いのでしょう。
ホワイトソックス、女性、28歳、会社員)

そういうことは多くの人の身に起こっています。物語が向こうから押し寄せてきます。それはあなたが生きていることの証のようなものです。あなたが生きていくという行為を、あなた自身が自動的に「物語化」しているのです。そうすることによって、あなたの心と、あなたが含まれている現実をすり合わせ、融合しているのです。あなたはただその物語を通過していけばいいのです。それは乖離なんかではなく、むしろ融合のひとつのプロセスです。心配することはまったくありません。

それを有効な文章に変える能力を持っておられないとあなたはおっしゃいますが、その増大していく物語を、とにかく少しでも正確に文章として書き留めておくのは、大事なことかもしれません。人に見せるためではなく、あくまで自分自身の記録として。それがいつか何かの役に立つかもしれませんよ。文章にしておかないと忘れてしまうこともたくさんあります。

 

 

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啓示的だ。