原発NO!に疑問を持っています - 村上さんのところ

原発NO!に疑問を持っています - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

 

早速ですが、村上さんは海外でのスピーチで原発反対を訴え、メディアもそれを伝えていました。ただ私自身は原発についてどう自分の中で消化してよいか未だにわかりません。親友を亡くしたり自分自身もけがをしたり他人にさせたりした車社会のほうが、身に迫る危険性でいえばよっぽどあります。(年間コンスタントに事故で5000人近くが亡くなっているわけですし)。文明と書かれたおもちゃ箱の様な物の中から、一つ原発を取り出して「これはNO!」と声高に叫ぶことが果たしてどこまでフェアなのかがよくわからないのです。もちろん原発なんてない方がいいとは思うのですが、世界を見渡せば増える傾向にしかないですし。原発反対=正義のような図式も違うと思うし……。

この先スーパーエネルギーが発見されて、原発よりも超効率がいいけど超危険、なんてエネルギーが出たら、それは止めてせめて原発にしようよなんて議論になりそうな、相対的な問題にしかどうしても思えないのですがどうでしょうか……。
アジアンタム、男性、38歳、鍼灸師

たしかに年間の交通事故死が約5000人というのは問題ですよね。それについてはなんとか方策を講じなくてはと、もちろん僕も思います(最近は年々減少しているようですが)。しかし福島の原発(核発電所)の事故によって、故郷の地を立ち退かなくてはならなかった人々の数はおおよそ15万人です。桁が違います。それだけの数の人々が住んでいた土地から強制退去させられ、見知らぬ地に身を寄せて暮らしています。家族がばらばらになってしまったケースも数多くあります。その心労によって命を落とされている方もたくさんおられます。自死されたかたも多数に及んでいます。その人々の故郷はいつ戻れるかもわからない土地として、打ち捨てられています。

もしあなたのご家族が突然の政府の通達で「明日から家を捨ててよそに移ってください」と言われたらどうしますか? そのことを少し考えてみてください。原発(核発電所)を認めるか認めないかというのは、国家の基幹と人間性の尊厳に関わる包括的な問題なのです。基本的に単発性の交通事故とは少し話が違います。そして福島の悲劇は、核発の再稼働を止めなければ、またどこかで起こりかねない構造的な状況なのです。

効率っていったい何でしょう? 15万の人々の人生を踏みつけ、ないがしろにするような効率に、どのような意味があるのでしょうか? それを「相対的な問題」として切り捨ててしまえるものでしょうか? というのが僕の意見です。

それからちなみに、「年間の交通事故死者5000人に比べれば、福島の事故なんてたいしたことないじゃないか」というのは政府や電力会社の息のかかった「御用学者」あるいは「御用文化人」の愛用する常套句です。比べるべきではないものを比べる数字のトリックであり、論理のすり替えです。僕は何度もそれを耳にしてきましたが、耳にするたびにいささか心がさびしくなります。

 

 

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(僕の意見) 僕はこのサイトの村上春樹の意見の多くに共感するし、意見に賛成できなくても少なくとも「ああこういう考え方があるな」と実感したり、それができなくても許容できるものばかりだけど、これだけは強い違和感を持つ。なんか言わされてる感がある。もしそうでないとしたら村上春樹はここで思考停止をしている。そういう感じがどうしても拭えない。

 

 

“「年間の交通事故死者5000人に比べれば、福島の事故なんてたいしたことないじゃないか」というのは政府や電力会社の息のかかった「御用学者」あるいは「御用文化人」の愛用する常套句です。比べるべきではないものを比べる数字のトリックであり、論理のすり替えです。”

ーーー村上はこう言うけど、僕は御用学者でも文化人でもないけど、このような考え方を持つので、こういう考え方を持つ人は御用なんとかだという決め付けには反発を覚える。
 それに「比べるべきでないものを比べる数字のトリックであり、論理のすり替え」と言ってるけど、なぜ比べるべきものではないのか?なぜ論理のすり替えなのか?それについて村上は何の説明もしていない。被害にあった人数を比べているのだ。単位は合ってる。別に人間1人としょうゆ1本を比べてるわけではない。それに村上自身が「たしかに年間の交通事故死が約5000人というのは問題ですよね。・・・しかし福島の原発(核発電所)の事故によって、故郷の地を立ち退かなくてはならなかった人々の数はおおよそ15万人です。桁が違います。」ってちゃんと比べてるではないか。しかも、「事故で死んだ人」1人と「移住をよぎなくされた人」1人を単純比較していいのか?って逆に言いたくなる。もし比べるんなら、死亡者と死亡者を比べなくてはならないはずだ。福島原発での死者は、いくらなんでも5000人にはならないはずだ。「比べるべきではないものを比べる数字のトリック」「論理のすり替え」を行なってるのはどちらか?

 

 

“もしあなたのご家族が突然の政府の通達で「明日から家を捨ててよそに移ってください」と言われたらどうしますか? そのことを少し考えてみてください。原発(核発電所)を認めるか認めないかというのは、国家の基幹と人間性の尊厳に関わる包括的な問題なのです。”

・・・と村上は言う。もしこういう問題なんだとしたら、人の住まない場所、過疎地などに作るのだったら問題なしということにもなる。日本にそのような場所を捜すことは不可能ではないだろう。たとえば関西空港を海に埋立地を作ってその上に立てたように、原発用の島を作ってそこで原発をすることなら良いのか悪いのか?もし村上の言うように、政府から移住するように言われるのが反対の理由だとしたら、そのような場所を確保できればそれでOKということなのか?そしてもしそういう理由で反対するなら、村上はダム建設にも反対なのか?それによって自分の生まれ故郷の村が水没したというところも全国ではたくさんある。成田空港で故郷を追われた人もある。村上はそういうのにも反対なのか?村上の場合はよく知らないが、一般にサヨクの人たちは、(成田空港の場合は昔、三里塚闘争があったが)、あんまりダム建設に一般的に反対しているイメージはない。だから故郷の移住を強制されることを原発反対の理由に掲げるのは、原発反対の理由づけとして無理やり理由を捜して言ってるような印象を拭えない。村上は海外によく行くと思うが、成田空港で強制的に移住させられた人たちに抗議して乗らないという話もきかないし。

 


“基本的に単発性の交通事故とは少し話が違います。そして福島の悲劇は、核発の再稼働を止めなければ、またどこかで起こりかねない構造的な状況なのです。”

・・・これもよく分らない言い分だ。年間コンスタントに数千人が死ぬと決まってる交通事故が、本当に単発的と言えるのかどうか。今年も数千人が死ぬのだ。来年も死ぬ。そう決まってる。「いや、みんな交通マナーを気をつければ来年は0人かも知れない」なんて言えるわけがない問題なのだ。必ず数千人死ぬと決まってるのだ。福島原発では事故発生から今まで、そしてこれから何十年を合計したって、決して数千人なんて規模にはならない。これも、原発っていうビジュアル的、イメージ的に不気味で巨大なものは怖いけど、交通事故は小さい車が人にドンって当るというビジュアルが相対的にあんまり怖くないっていう話だけだ。車の事故のほうが原発よりもはるかに人を多く殺すのだ。

 そして、もし人を死の危険にさらすものが人間の尊厳を脅かすものだとしたら、質問者が的確に指摘しているように、
 “文明と書かれたおもちゃ箱の様な物の中から、一つ原発を取り出して「これはNO!」と声高に叫ぶことが果たしてどこまでフェアなのか”ということになる。
 村上がここで示した発想は、サヨク一般によくあるように、アンチ文明的な発想だ。飛行機だって死の危険がある。「星の王子様」を書いたサン・テグジュペリはそういう死と隣り合わせの世界を選んで生きた人だった。村上の好きなヘミングウェイも戦場に飛び込んだ人だった。飛行機だって危ないし、船だって太平洋の真ん中で沈んだらほとんど助からないだろう。自動車だって、年間数千人殺すのだ。
 こういう、文明の新しいものに対する警戒心というのは常に働く。世界にさきがけて日本で初めて先物相場が江戸時代にできた時も、時の幕府は「これはバクチだ」と言って禁じたという。たしかに相場で破産して自ら命を絶つ人もいる。今だっている。だから先物とかいろんな相場はバクチとして、悪として、禁止するとしたら、今のような資本主義の発展はありえなかった。それをすべて禁じてしまうのは、アンチ文明的な発想で、村上にもそれがある。
 村上はまだ一介の小説家にすぎないから、これでも構わないと思う。このぐらいでなければ良い小説は書けないのかもしれない。こういう老荘思想っぽいアンチ文明主義も、充分正当化される。そしてもちろん言論の自由、良心の自由があるから、このような言説ももちろんOKなのだ。
 しかしこういう意見が政治的に表明されれば、それは文明にストップをかけかねない発想として警戒しなければいけない。村上はもちろん何を言ってもいいのだ。政治からストップをかけられたとしても言論人は言いたいことを言うべきなのだ。村上は去年だったか、短編小説の中で北海道のクソ田舎の地名を出して「この町はクソみたいなところだ」だったかな、正確は表現は覚えてないが、そう書いて、その地方自治体のクソ議員たちに抗議されてその表現を取り下げて変えてしまった。言論をする人は、そういうことをすべきではなかったと思う。村上春樹は、政治的圧力なんかに屈せず、どんどん物を言うべきなのだ。
 しかしその上で、ここで示された村上の発言は、村上には珍しく、それこそサヨク政治思想の御用文化人を思わせるような皮相さを感じて僕は残念だ。もし原発反対を言うにしても、こんな朝日新聞の古新聞の社説にもありそうな下らないものではなく、「なるほどなあ」って思わせる意見が聞きたかった。僕は村上春樹のファンだ。村上の言うことにはかなりの嗅覚を持っていると自負している。村上の言うことには常に、心の奥底に触れる説得力がある。この文章に関しては、珍しくそういうものを感じないのだ。